私の魂はこの先、多くの記憶を抱えて生きていくのだろう。

けれどもこの記憶には、始まりが無い。






光と闇






男が駆った馬の足跡は、北へ見通す限り続いている。

見通すといっても、木々が深く生い繁っているので見えて数十メートル程度。

自分は、その浅く残った足跡を急ぐ訳でもなくゆっくりと辿っていった。


しばらくすると、遠くから微かに何かの物音が聞こえてくる。

歩を進めれば進めるほど、その音は明らかになり、種類も一つにとどまらないことが判ってきた。

ある時は肉を薙ぎ払い、ある時は剣を交え、ある時は何かが地面に落ちる鈍い音だった。

目で確認するまでもなく、その先には戦場が広がっているのだと確信する。

それも、人と人にあらざる者の戦いだ。

視界が異様に明るいと思ったら、視界の端で大きく炎上しているものがあった。

ある一つの対象が燃えていると思ったら、次から次へと燃え広がる。燃え尽きるということを知らぬようだった。

このままでは森に燃え移るのではないかという勢いだったが、幸い、今のところ木への燃え移りは見られない。

しかし、そんなことより何よりもおぞましく目を引いたのは、燃え盛る火の中心で炙られている、その者の様子だった。

たとえ実際に見たことが無くても、普通なら正気を失い、出せる限りの奇声を発し、のたうち回るような想像は容易につく。

それなのに、自分の数十歩先にいる炎に包まれたその人の形を成したモノは正気を失うことも、奇声を発することも、のたうち回ることもせず、ただ自分の肉体が炎に蹂躙され灰となっていくのにまかせているのである。

否、もともと正気など持ち合わせているはずもない。彼らは既に生を失った動かざるべきモノなのだから。

男の方はというと、全く危なげなく戦っているように見えた。

元々、戦っている場所は森を人が行き来する為の簡易的な道路であるから、相手の数が多くても数にものをいわせる戦い方が出来ない。

疲労は蓄積していくだろうが、多数対一人という戦闘においては少数に有利な戦場だった。

男は刃のみならず柄や肘までも駆使して自分よりはるかに多い不死身の戦闘兵を着実に減らしていった。

剣に脂がついて使い物にならなくなれば、今倒した敵兵から奪い取る。

男の足元には既に何本もの剣が転がっていた。


ここまでを木の間から覗き見ていた自分は、戦場から数歩後退し、木の陰に身を凭れた。

ここでその場に身を投じ、戦いに参加しないのは、傍目から見れば非協力的で非人道的に映るだろう。

しかし実際、自分に何ができる?

戦の方法を知っていたかどうかすら忘れ、剣の一振りも持たず、振り方も知らず、自分の身の護り方すら忘れた自分が参戦して、足手まとい以上の立場が得られるとはとても考えづらい。

或いは使用する相手を忘れ、使われる道を失った恐ろしい効能を持つあの旅嚢に入った薬を用いるなら、敵の十数頭くらいはなんとか出来たかもしれない。

だが、戦いの最中で時折覗き見える、炎に照らされて赤く輝いた男の表情は、そんな考えを打ち消した。

昨夜話していた時と同じ、飢えた獣の顔をしていた。

心から狩猟を楽しんでいる表情だ。

きっと、戦い方を知っていようといまいと、自分が飛び込んで行ったら迷惑そうな顔をするのだろう。

もしかしたら、敵と同じように斬られるかもしれない。

そう考えてふと、自分が記憶を失って目を覚ました時のことを思い出した。

何故あの時男は自分を殺さなかったのだろう。

目を覚ました時には、喉に切っ先が宛がわれていた。

そんな事をせずにそのまま一息に貫いてしまえば簡単に殺せた命だったのに。

しかもその後、自分に戦う意思がないと判ればその切っ先さえ鞘に納めてしまった。

そもそも、自分は何の目的であの男と戦うことになったのか。

あの薬はあの戦いの為にあったのか。

そこまで考えて誰に否定するでもなくゆるゆると頭を振った。

やめておこう。どうせ考えても答は出まい。

それに、自分の頭のどこかで、考えるべきではないと警報が鳴り響くのが聞こえるのだ。

もしかしたら。

もしかしたら、あの男を殺すのが自分の役目なのではないか。

その可能性を打ち消すためにも、深く考えてはならない。

そう考えると、記憶を失ったことも幸いに思えてきた。

今の自分は目的を失った。

それならば、これから先は自由に振舞えるではないか。



それから三日三晩戦いは続いた。

戦っている男は勿論、自分自身もこの三日、まんじりともせずにただ木に凭れて、耳だけで戦闘の様子を聞いていた。

ふいにこの三日で聞き慣れてしまった肉が地面に落ちる鈍い音を最後に、森に三日ぶりの静寂が戻った。

静まり返った森に、カチンと剣を鞘に戻す音が響く。

無数に転がった剣と遺体の山から、自分の剣を探し出して軽く血と脂を拭き取り、元の鞘に戻したのだろう。

男の方を向くと、男は来た時と同じ場所で、同じように自分に背を向けたままだった。

「…――北には何も無いぞ」

背を向けたまま男は言った。

戦闘中に自分の姿を見つけた様子は無かったのに。余程人の気配を読むのに慣れているのだろう。

無言のまま立ち上がると、その目の前を通って男は来た道の方へ歩いていく。

「…村へ戻るのですか」

「俺が戻らねば、また子供たちが下らん呪いの生贄にされるだろう」

男は全くの無表情で、声にもなんの情感も表れていなかったが、発した言葉には弱い者への優しさが含まれていた。

実に掴みどころのない男である。

愚かな大人や戦うべき相手に対しては見る者を震え上がらせるような視線を向けるくせに、女子供へ向ける態度は、冷酷なそれとはかけ離れている。

三日前の夜、まどろみの中で聞こえた話からすると、男は王族の血筋であるという。

もしかしたらこういう者が民の上に立つに相応しい王となるなのかもしれない。

ぼんやりと頭の片隅でそう考えながら歩いて行くと、見覚えのある村が見えてきた。

村が夕日で赤く染め上げられているのを見て、初めて今が夕方であると自覚する。

鬱蒼と繁る森の中では、空を見上げない限り今が明け方なのか、それとも日中なのかなど判りようもないのだ。

村は最後に見たときと変わっておらず、人の姿は全く見られなかった。家から漏れる音さえ殆ど無いに等しい。

おそらくあれから三日間、呪いを恐れてずっとこの状態なのだろう。

そんな村の様子を眺めつつ、最後に世話になった鍛冶屋であるルシンダの家に向かうと、家の外に人影が見えた。

人影はこちらに気がつくとすぐに駆け寄ってきた。

「――お帰りなさい!呪いは!?」

家の前に立っていた人影は案の定ルシンダだった。駆け寄ってきたと思うと心配そうに大きな怪我が無いか見回す。

「見ての通りだ。村人の言っていた呪いとやらはあるにはあったが、見つけた限り全て倒してきた。出来れば風呂に入りたい」

「あぁ、そうね。その方がいいわ」

男の服や手や顔には血糊がべったりとついていて、お世辞にも良いとは言えない腐臭が漂っていた。




二人して順番に風呂を借りた頃には、男が預けた剣は血や脂が綺麗に拭き取られ、二人の服も綺麗に洗濯して干されていた。

男は風呂からあがるとすぐに借りた寝台に潜り込んで寝入ってしまった。

自分はというと、暖かい茶を貰い、食卓でルシンダと軽く話し込んでいた。

「三日間ずっと、家の外に?」

「朝昼晩のご飯と、お風呂の時だけは中にいたけどね」

弟とあの子たちに食べさせたりしないといけないから、と付け足す。

そういえば風呂から出た頃には子供たちはすでに就寝しており、帰ってきてから一度も会っていないのだと気づく。

これで二人は無事に親元へ帰れるだろうか。

「ところで、あなたの服はあまり汚れていなかったようだけど…」

「ああ、私は戦ったわけではないので…」

「じゃあ、あの人一人で戦ったっていうの!?」

ええ、と返すとルシンダは感嘆のため息をついた。

「余程強いのね。あの人」

「ええ……私が、見た限りでも…」

その会話の最中に、ぷつんと意識が途切れた。





目を覚ますと、自分は潜り込んだ記憶のない寝台に横になっていた。

ゆっくりと起き上がり、辺りを見回すと、外はすっかり明るくなっているのが判る。

隣から微かに話し声が聞こえた。

寝台の脇に畳んで置かれていた自分の服に着替えて寝室から出ると、食事の乗った卓を挟んで男とルシンダが談笑していた。

「おはよう。よく眠れたかしら」

「…私は確か…」

「朝起きてから俺が寝台へ運んだ。朝食が置けなかったからな」

自分の疑問を読み取った男が答える。男の目の前にある皿は既に空だった。

「ごめんなさい、私じゃ寝台まで運べなかったものだから」

ルシンダはそう言って立ちあがると、新しい皿に朝食を盛り付け出した。

卓につくと、すぐに皿を出してくれる。

ルシンダも席に着きなおして、男が再び口を開く。

「それほど多い数でもなかった。道が細く周りに木が繁っていたために少数対少数で戦えたしな」

「でも三日間も戦い続けるなんて、とても考えられないわ」

「やってみればそう過酷でもない。前回の村ではこんなものでは済まなかった。さらに酷い」

どうやら先日の戦いについて話し合っているようだ。

奇跡的に森に火が回らなかったのは幸運だったという話をしたところで、ルシンダが話を切り替えた。

「ところで、あなたは何の目的でどこへ向かおうとしているの?」

「さあ。特に何の目的があるわけでもないから、どこか目的地があるわけでもない。ひたすら放浪の旅だ。…そうだな。強いて言うなら、戦いの匂いがするところとでも言うべきか。
昨日のような敵を追い続けていれば、そのうちその大本にも辿りつけるかもしれん」

「本当に戦いが好きなのね。…あなたは?」

それまで黙って話を聞いていただけなのに突然話を振られ、一瞬戸惑ってしまう。

「私は…」

自分は、何を求めてどこへ行くのか。

自分が今一番求めているのは、過去だ。

だがそれよりも頭を占めていた答は…

「私は、この人について行こうかと」

「俺は承諾した覚えはないが」

驚きも滲ませない声で、一言そう突き返される。

「ついて行くだけなのですから、自分の世話は自分で見ます。あなたの迷惑にはならない」

「ついて来ることすら、俺が嫌だと言ったら?」

「それは…仕方ありません」

「諦めると?」

「あなたが嫌だというのなら、どうしようもないでしょう」

そこまで聞くと、男は無言で立ちあがり、数少ない荷物を持って戸に手をかけた。

「世話になった」

「あ、え、ええ」

戸惑い気味のルシンダの返答も聞かず、外へ出る。

その男の眩い金の髪が朝日に照らされるのを見送って、自分は暫し考えた。

男は、『無言』で立ち去ったのだ。

それに気づいて、自分もすぐさま旅嚢を掴んで立ちあがる。

立ち去る前に、食事と風呂と寝床の礼としていくばくかの金を渡そうと旅嚢を探ると、ルシンダがそれを止めた。

「お礼をするべきなのは私のほうだわ」

「ですが、私は何も…」

「そう思うのなら、」

何もしていない、と言おうとした言葉を遮って、ルシンダは笑顔で続けた。

「そう思うのなら、お礼はいいからまた来てくれる?」

「…ええ。また、いずれ」

笑顔でそう返すと、自分も家の外へ出た。


男は既に随分先を進んでいた。

早足で男に追いつくと自分も一歩後ろについて歩く。

「…――闇が無ければ、光は存在し得ないと、いつかそう言った者がいたな」

男は何の前触れもなくそう言った。前を向いたままで。

「…それは…」

「意味は、俺にはわからんが」

前しか向かない彼の、風に揺れる黄金の髪は、朝日を受けて輝いている。

「…それならきっと、こうも言えるのでしょうね」



光が無ければ、闇も存在し得ないと。